森川穣「彼の地」について
森川には2年程イギリスに留学した経験がある。
彼にとってその経験は、それまで育ってきた周りの環境から離れることで、今までの自分に対して考え直す機会になったのかもしれない。
以前、森川が「海外で生活すると、自分が日本人であることを痛感する。」と語っていたことを思い出す。
自分にとっては良くも悪くも日本がホームであり、それ以外はどこへ行ってもアウェイだと感じることがある、と。
今回、森川は自分の制作場でもあるstudio90を支えている地面を作品へ取り込んでみせた。
全く馴染みのない土地と、生まれ育った土地の記憶、その中で信じられる確かな現実として、彼は、今自分が立っている場所、常に足元に存在する地面へと目を向けたのだろう。
多くの情報が飛び交い、様々な国へ行けるようになったとしても、変わらずに存在し続け、その度自らの足元を確認出来るものとして、森川は地面を使いたかったのかもしれない。
もう一つ、この作品には「認識」への問題も含まれている。
私たちは、常に物事を認識することで判断を行なっている。
対象が自分にとって何なのか、認識しなければ判断することは難しい。
そして、一度認識されたものは自分にとって当たり前になり、再度認識し直すことは困難になるのではないか。
では、私たちが普段ものごとを認識するとは、一体どのような状態なのだろう。
知識を得た時か?目で見た瞬間か?それとも手で触れた時だろうか?
もちろんそれは、認識される対象の形態によって様々であるし、どのように認識したとしても、認識したこと事態に違いはない。
しかし、知識の上で認識されたことと、手で触れてから認識したことでは、本当は少し捉え方が変わってくるのではないだろうか。
地面とは、常に私たちを支えてくれているものだと誰もが「知っている」ことではあるが、直接その表情を「見たり触れたり」することは難しくなってきている。
街中で生活していると余計にそう感じてしまう。
では、実際に私たちはどのような地面の上で生活しているのだろう。
色は?感触は?臭いはないのだろうか?
とても些細なことである。取り立てて気にすることではないかもしれない。
しかし、実際に地面を見たり触れたりした人は、それまでの知識のみで知っていた地面をほんの少し認識し直す。
同様に、森川の作品を見た私たちは、今までとは違う形で地面と向き合える。
そこにはきっと、地面をより深く認識することが出来る要素が詰まっているはずだ。
認識と再認識、その差はわずかかもしれないが、そのわずかな隙間に新しい発見が潜んでいるのかもしれない。
きっと可能性とは、そういった隙間にも存在しているのだろう。
2008/07/31 田中 真吾